(3)三大労組の統一行動からブロドリーニ法へ
1963年4月の総選挙は、アルド・モーロの中道左派の政治定式から始まったが、社会党内が左派の潮流から分裂を起こすほどの重大な亀裂をもたらし、翌年にはプロレタリア統一社会党(PSIUP)が結成される。
一方、労働戦線の分裂以降、弱まっていた労働協約権交渉では、この頃から次第に統一の萌芽が金属機械の分野で始まり、大きなうねりとなっていく。しかし、第二次モーロ内閣の労働大臣は、組合要求のスカーラ・モービルを拒否し、あまつさえ年金支給の開始年齢を70歳まで引き上げることを提案してきた。広範囲にわたるデモのサイクルの原因となってきたことは言うまでもなかった。50年代始まったWスト権のないW年金者たちの争議は、W数Wを集めることでしか「力」を発揮できないことは、はっきりしていた。
そして、闘争の約3年後、1965年7月21日の法・第903号によって年金の法的措置が実施された。負担金の35年後の勤続年金の年金承認、遺族年金の60%分の引き上げ、配偶者や学生子弟への家族手当の承認であり、自営労働者のために年金者適正基金(Fap)によって出資された社会基金であった。いづれにしても、まずまずの結果であったが、FIPは、イタリアの社会保障システムを構造的に成熟させるには、不十分と考えて、これらの措置をW欠落した改革Wと定義して批判した。
法・第903号への批判と真の改革の検討は、1966年5月7〜11日までの5日間、モーデナで開催されたFIPの第7回大会の主要な軸であった。まとめの動議の中で、直接・無料の扶助の拡大、医療費の合理化、科学的研究の財政出資の提案で、医療改革の余地もあった。CGILとFIPの活動の成長に平行して、FIPの活動も一層量的にも質的な段階に成長していき、それに女子の条件の法的問題についてのFIPの第1回会議(1967年3月12日、ジェーノヴァ)と3月〜4月の闘争サイクルが、5月23日のローマの大デモで頂点に達した。
1968年は、初めに、イタリアの多くの大学が学生たちによって占拠された。こうして短かかったが学生運動の激しさが増大し、その推進圧力もすばやく労働者の煽動に成長して交差していった。こうして金属機械労働者たちのW熱い秋Wに到達する。工場委員会や職場代表委員会の末端の統一した団結力のおかげで金属機械労働者の前衛は、要求の決定や数千数万の労働者動員によって、交渉の対象を決めることができた。
1968〜69年の2年間に、年金についての紛争は、政策討論の中で中心的な位置を持った。1968年2月27日、明け方であったが、モーロ政府が準備した年金攻撃の草案に、三大労組の指導組織は最大の賛意を示したが、決定を留保した。そして、三大労組の書記局の立場は、年金者よりも現役労働者の激しい反応に手を負えなくなった。CGILの書記局長ルチアーノ・ラーマは、直ちに改革案を否定し、CISLも同意しようとしたが、問題はUILであった。結局、3月7日、CGILのみがゼネストを敢行し、大成功を収める。そういう経過を経て1968年11月14日の統一ゼネストが敢行される。CGIL、CISL、UILによって宣言された、69年2月5日の2回目のゼネストで大成功となる。1969年12月の協定は、いくつかのすばらしい成果を獲得した。週40時間制、全員に平等の賃上げ、工場内集会の権利であった。そして、最も重要な成果は、何よりも当時言われていたようにW工場内に憲法の登場Wの「労働者憲章(1970年5月)」であった。
工場内におけるすべての労働者の権利の承認と保護のための労働者憲章の最初の提案は、1952年のナーポリのCGIL第3回大会で、ディ・ヴィットーリオにより定式化された。その考え方は、企業家と労働組合との関係の激化のために、50年代に一時棚上げされ、60年代に中道左派政権の樹立で脚光浴びる。しかし、企業家の反対によって、1968〜69年の闘争が労働運動の組織的な要求の力を示す前に上梓されることはなかった。
通称「労働者憲章」は、「労働者の自由と尊厳、および組合の自由と職場における組合活動に関する規定と職業紹介に関する規定」である。ILO・の87号条約、98九八号条約が、1958年に批准され、1961年には、トリーノで「ヨーロッパ社会憲章」が締結され、1965年に批准されていたことが大きく実ったのである。
1969年4月30日の有名な、第153号「ブロドリーニ法」は、イタリアの社会福祉の建設過程で、労働組合の最も重要な成果の一つを表わした。1976年までに80%に達する約束で、今までの65%から74%の年金・賃金関係、年金受給者資格が欠いた65歳以上の者への社会年金の制度化、抑制された形で予想されたとしても、最初のスカーラ・モービルの制定、55歳と60歳の年齢を超えない者にも35年の負担金を持つ勤続年数の承認、女子専用の新しい方策である。改革は完全ではなかったし、FIPの側からも批判を受けた。年金者としては成功であったが、いくつかの産業間の同業的な差異を清算しておらず、工業部門よりも公務部門にはまだ特権が残っていた。
イタリアの労働者、労働組合運動の成長と強化と平行してW緊張と戦略WとかW銃弾の年月W言われる、権力を振りかざした企てギリシャのクーデター、チェコスロヴァキアへの武力介入が忍びよってきた。それは国内外の変節した秘密情報機関、ネオファシスト・グループ、フリーメーソン(世界主義の秘密結社)が参加した。それに政治的・社会的風潮がオーバーヒートし、ミラーノのフォンターナ広場の大虐殺(1965年)、ロージャとイタルクスの広場の大虐殺(1974年)、さらにWボルゲーゼの狐Wの失敗、レッジョ・カラーブリアやラックイラの暴動、カラーブレゼの殺人、ペテアーノの虐殺(ゴリーツィア近くの村、憲兵隊員3名の死亡)が記録されている。
労働組合の戦線で、1968年〜70年の大勝利のあと、住宅から医療、教育、税までの構造的な大改革の挑戦がされたが、現実には悪化した経済の景気変動と政治意欲の欠如は、1970年代の初めまで組合の防衛路線を余儀なくされた。組合は統一歩調を続けようと強化をはかろうとした。フィレンツェで開催された三大労組会議は、討論の打ち切りや多くの障害がありながらも、1972年7月にCGIL・CISL・UILの連合協定を調印する。。
一方、医療改革の分野では、歩み寄りがより困難と思われていた。そのために、ローマでの偉大な統一集会が開催された日にも約200万人分の国民請願書が集約された。
1973年5月22〜25日、チェールヴィアのFIP第9回大会で、福祉問題での要求、年金者の経済的諸権利や法的効力をもつ目標と共に、初めて要求の政策大綱の中心に、高齢者の社会的、道義的な要求が提案された。経済の景気変動は、著しく悪化し、世界経済は、オイルショックにより重大な危機に直面した。不況下のインフレ進行のスタグフレーションであった。言うなれば生産不信と価格のコントロールなき増大の同時的存在であった。