イタリア年金者組合最初の頁

(5)SPIの偉大な飛躍 量と質の大転換
 1980年代に入るとSPIの組合員が激増した。100万人から200万人を突破しようとする時に、三大労組の全国統一行動が発議された。1986年6月6日、社会国家の撤回に反対して、三大労組の年金者組合の全国統一行動が設定された。政府に対する広大なデモや集会が開催されたが、彼らの声や彼らの影響力を反映させることができなかった。そこで数ヶ月間の準備をして新しい政策大綱が練り上げられた。それが1987年11月17日のローマの大集会であり、そこに年金、税、社会サービスの制度的要求がかかげられた。
(1) 年金取得権を守るために賃金と年金との連動
(2) 低所得者層の年金の社会的給付と社会年金の増額
(3) 数年間で削減されてきた、公・私の年金の再評価
(4)  税負担の軽減
(5) 窓口支払いの廃止と全国保健医療サービスの給付・機能の改善
(6) 社会サービスのための全国基金の設立
 この目的のために何千、何万の年金者たちは、県や地方の150ヵ所を超えるデモによって組み合わさった。言われたのは「必要ならばみんなでローマに行こう!」という合い言葉であった。

私が見た25万人のローマの年金者大集会
 1987年11月11、12、13日には、各州の年金者組合の代表者が国会や民主的議員団への要請も兼ねた現場検証をするために、ローマでの偉大なイヴェントを準備する。ローマには現存する最大、最古のオベリストがあるが、キリスト教徒にとっても、労働運動にとってもその“聖なる地”サン・ジョヴァンニ広場を25万人の年金者で埋めようと言うわけである。数千、数千、数万人や数万の車を一定時刻にローマに集結させることは並大抵なことではない。とりわけ、ローマの現役の組合活動家や幹部たち、特に公務サービスの労働者たちは、数週間にわたって詳細のすべてを年金者組合と合意し、あらゆる分野の管轄する当局者たちとの打ち合わせを組織し、ローマを麻痺させないためのW非常時計画Wを準備した。高速自動車道路の管理者までが巻き込まれ、約10万人に及ぶ人たちが動員されることになる。
 1987年11月17日は、快晴であった。9台の特別列車と1200台の観光バスは、ローマ市内の4ヵ所から行進を始めた。最初の行進は、共和国広場の半円形の回廊広場から行進が出発した。これにはCGIL、CISL、UILの総同盟の最高幹部たちや年金者組合の各組合幹部も行進し、ローマの代表者、ラツィオ州の部隊が続く。横断幕は、ゆっくりと動き始め、次第に大型バスや列車が到着する。とりわけ心配されたのは、遠方のシチーリアやサルデーニャの島々と北部のヴァル・ダォースタやトゥレント、ボルツァーノのものであった。
 第二の隊列は、シエンツァ広場に集まったロムバルディーアのバスが150台、ヴェーネト州からは80台、ウームブリア州からは60台である。
 第三列はラグーザ広場には、南部のプーリァ、ルカーニア、モリーゼ、カラーブリア、アブルッツォと唯一、北部のピエモーンテとリグーリアの各州の部隊である。
 第四列は、チルコ・マッシモに止まった。到着時刻には十分間にあった。最も遠いのは、フリウーリであったが、オスティエーンセ駅に到着した。問題は、エミーリア・ロマーニャとトスカーナ州の駐車場の関係であった。降車場から数キロの道を延々と歩かなければならなかった。
 デモを組織した者にとって、サン・ジョヴアンニ広場はいつも大変危険であった。広場を完全に一杯にするためには、少なくとも15万人が必要であった。実は、年金者組合の幹部たちは、デモの大成功については、少し不安を持っていたが、提案されてきた要求の切実さにWノーWとはいえなかったのである。
 1987年5月9日、SPIの3000人の幹部・活動家たちが、CISLやUILへ提案すべき要求の政策大綱を承認した。組合の分裂のあと、統一の再建への基本的な歩み寄りであった。6月には合意がされ、7月には改革の政策大綱が各省庁のテーブルの上にあった。SPIの提案には、70万人を越える年金者の参加によって、約6千の集会で討論され、かって実現もしたことのない大衆的な協議がされた。CISLは、独自の立場で大衆的なイニシャティヴ法のために約60万人以上の署名を集めた。一方、UILは、末端で自分たちの協議を受け持った。共に行動すべく壮大な勢力が、統一を必要としたのである。
 年金者のことについて、産業別のW現役Wの側からは、いつも純粋な連帯的支持だけ簡単では容易ではなかった。そのために、三大労組書記局は、世論の喚起、動員のキャンペーンを作り、デモに現役労働者の加入や参加を推進するように、自らの地域構造に求めた。
繊維労働者連合の書記局のアピールの中にも読める。「デモの目標は、年金者ばかりでなく、イタリア労働者全体に関わる問題である。この意味でFILTA・FILTEA・UIITAは、デモに工場委員会の代表を共に加入し、参加するよう自らの構造に求める」。
 当日の新聞は、《年金者たち・我々は亡霊ではない(イルジョルーノ)》《シルバー≠フ抗議ではなかった(イル・メッサッジェーロ)》《第三の人生の地獄の人(イル・マニフェスト)》と静かな怒りがローマを横切った。 年金者たちの運動は、参加する数も問題だが、運動力も問題であった。特別な思想的飛躍から明確になった動員力が、彼らにもまだ残っていることを明確に示した。


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