(7) 女子調整(委員会)の設立
1989年には、ほかの二つ変化がSPIの内部から誕生する。一つは、女子年金者の調整(委員会)であり、もう一つは、SPI・CGILとCGILによって推進された「サービスの自主管理と連帯の会(Auser)」である。
1984年11月のピサの会議で、女子年金者たちだけで組織されたこともあるが、当時はまだ一部の声であった。「この我らの輝かしい組合をよくするために、すべてのレベルで最高の女子指導者を持つ野心を持たなければなりません」。しかし、SPI・CGILの全体的な強化に直接的に比例した方法で成長していくかが問題であり、とりわけ指導組織内での代表制の問題が残った。
1988年2月12日、SPI女子委員会の会議で「我々すばらしい女子活動家たちは、すべてを見た。班や地区での組合員証更新や新聞の普及のための活動、たくさんの社会サービスのテーマについての活動、祭りの成功のための活動、そしてどこで最も全体的な組合活動の中で努力していたのか? 男子の幹部たちに付いて回っただけではないか? それで問題は何か? SPIを指導している女たちは、まだ少しである。これがSPIの限界よ。女がいなくて組合が、W半減Wしたのだ」。(アルベールタ・パガーノの報告)。
この限界を克服するための具体的な制限は、女子が少なくとも指導機関の25%以上にしなければならないという決定であった。パーセントの問題だけではなく、政治的観点からも女子は、サービスの能力や効果、そして有能で適正な社会国家のための全体的な戦いとして、「私たちのテーマ」と断言したパガーノの言葉どおり、直接的に女たちを巻き込んだのである。「女子の労働組合にするのでなく、労働組合の中の女たちが引き寄せられた(口説き落とされた)場所なのょ」。
新しい女子調整(委員会)から生まれた提案の質は、直ちに明らかとなり、「年金者女子の権利憲章のために」というテーマで、1990年6月のヴェローナの集会で立証される。それが労働組合の要求政策を革新し、補強することに貢献していくことになる。
「サービスの自主管理と連帯の会」(Auser)の誕生
その誕生は、社会国家の面からは困難な期間はあったにせよ、1988年のSPI・CGILのリーミニの第13回大会で採用されたスローガンにある。「高齢者は、わが国にとっての資源である」。イタリアの社会・経済の生活の中で、主人公であり続けるための権利を実現し、彼らの経験・能力・知識を連帯活動の中で生かすための大きな挑戦の具体化であった。「百歳まで生きられるような人生か?」という自問でもある。
1989年5月5日に、SPI・CGILとCGILによって推進されたAuserが誕生した。初代会長マーリオ・コルシーニは、「わが国の社会的・経済的暮らしの中で、主人公のままであり続けるための高齢者の権利を実現するために、全イタリアで、年金者や高齢者の経験、能力、知識を生かすための、巧みな直感や偉大な挑戦」であると宣言した。
(1989年4月12〜14日のキアンチアーノの会議で福祉をWefareとして使い出したのが、当時のCGIL書記長ブルーノ・トゥレンティンであり、その当時はW新語Wとなった。)
Auserの最初の全国講演会は、1990年11月28〜30日、ローマで開催された。会議には、高齢者、労働組合、諸機関やさまざまなボランティア連帯組織間の合意を得て、連帯や文化と成人教育、有益な社会活動(環境、都市の住み易さ、芸術財産の保護と監視)健康増進、住居財産としての住まい、自由時間、バカンスのプロジェクトをタイトルとした。
ヨーロッパでのAuserの責務は1993年の「高齢者と世代間の連帯、ヨーロッパ年」にさかのぼる。この時に、Auserは、ヨーロッパ委員会に、その最初の試験的なプロジェクト「人間形成(フォーメーション)と教育(エデュケーション)を通じた世代間の連帯」を提出した。
1994年に、Auserは、他の社会的市民組織と共に、第三セクターの恒常的フォーラムを作り、さらに、1995年から98年にかけて「包摂と参加」の大きなプロジェクトの推進者となり、社会的排除への闘争、恒常的教育、生活の質の領域でその活動を発展させた。1999年の大会的集会は、「社会的連帯、青年、高齢者との間の新しい関係や交渉のチャンスの積極的な市民とプロジューサの主体」として高齢者の役割を強調した。
同年5月12日、「会」の最初の女子会長マーリア・グイドッティがその任にあたった。確実に、女が前進しているAuserについては別途に詳細に説明する。