イタリア年金者組合最初の頁

9.イタリア年金者組合(SPI・CGIL)の略史

(1)イタリア年金者(FIP)の創立   
イタリア労働総同盟(CGIL)は、まだナツィファシズムの占領下でありながらも、1944年6月4日、ローマ解放直後に共産党員(ディ・ヴィットーリオ)、社会党員(ブオッツィのナツィスの殺害後、リッツァードリ)、キリスト教民主党員(グラーンディ)の偉大なパーソナリティによって創設された。反ファシズム政党の非公然活動の合意形成が生まれる過程の中から、政党と政府から独立し、強制的でなく、労働者の自由な加入の統一労働組合が誕生した。しかし、一般大衆ではなく、特定の政党のイニシャティブによって彩られた背景は、のちのちまで尾を引くことになる。

戦後、直ちに産業別、業種別組合組織と地区労働評議会(CdL)が結成されて、廃墟の中から夢と希望の労働組合の再生であった。

1946年6月2日、共和制へのイタリア民衆の国民投票により、共和制の可否をめぐる体制選択が決定された。その後、憲法制定議会が各派から選出された75名の委員をもって憲法草案が起草され、1947年12月22日、これを採択し、翌1月1日から施行された。

こうした時代背景と政治的・組合的な枠組みの中で、CGILに所属する年金者組合が位置づけられた。年金者組合を結成する発想は、ファシズム時代に、いくつかの無秩序な年金制度のみを温存し、大変な難儀を被った高齢者の要請に応えるため、年金者の代表制と援助の必要からであった。

イタリア年金者連合(FIP)は、1946年9月5〜8日、フィレンツェで誕生する。

全国42の地区評の年金者支部とCGILには所属していなかった他の年金者の会の代議員が出席した。新しい構造は、法的にも法人として認められる目標をもって誕生し、CGILへの加盟を申請し、その中央本部をローマと定めた。

その最初の会長は、カトリック界出身のデ・マルティーノであった。彼は時代を色濃く反映した家父長主義で、権威主義的な態度で新しい組織を指導した。FIPは、最初に労働者の社会保障権の保護と代表制の、真の労働組合としては組織されなかった。しかし、いくつかの主要な規約の原則が長く残ることになる。

まず第1に、総同盟らしさの原則、言うならば、労働界のすべての分野を横断する政策の代表制、第2に産業別の縦の構造と水平的に横の地域的な構造(地区労働評議会)とをしっかりと結びついた。組織化計画は、2つの要求に集中された。社会保障の改革(混合年金、間接年金、軍人恩給)と単一の全国構造なさまざまな社会保障機関の統合であり、地方自治体の上に組織することであった。

労働組合は、ファシズム時代に雀の涙ほどしかない社会保障、社会福祉の経済給付を改革する目的で政府に対して強い圧力を掛けた。こうした形ですでに1939年に生まれていた全国社会保障保険公社(INPS)の年金者は、70%の改善を受け取り、1946年には最低条件と年金補足手当を通じて二倍にした。生計費の適正化で、結核患者や失業者に対する保険支払いもされた。

1947年から全国的、国際的な複雑な背景によって激しく変化し、W冷戦Wの局面が始まった。有名なWトルーマン・ドクトリンW表明に続いて、マーシャル・プラン(ヨーロッパ再建へのアメリカ援助特別計画)についての国際論争が原因となり悪化していった。

イタリアでは、国際的な変遷や反ファシスト政権のバランスの破綻、左派の政権離脱の相関関係の中で5月に緊張が増大する。政治的事件は、統一されていた労働組合内に心配されていた反響を引き起こし、CGIL内のさまざまな精神を結びつけていた統一的緊張を弱めていった。キリスト教労働者協会(ACLI)がより先鋭的な方針を強め、一方、シチーリアのポルテッラ・デッレ・ジネーストラの虐殺(1947年5月1日)は、摩擦と動揺を増大させた(メーデーの日に地元の農民が集会中にマフィアに操られたW山賊Wに襲われて11名が死亡)。

1ヶ月後、フィレンツェで統一CGILの最初で最後の大会の作業は、政治ストに訴えることができる、規約第九条についての激しい論争の雰囲気に中でおこなわれた。大会では、年金者の根本問題が討論された。最終的文書は、単一の全国組合にすべての年金者を統一させる提案が承認され、こうして構造の総同盟性が維持された。

すべての従属する労働と広範な自営業分野の保護の拡大、各制度を全国単一構造にすることはむろんのこと、負担金の確認と受領システムの統合化、管理の簡素化、企業と国家にする負担金の決定、スカーラ・モービレ(賃金スライド)制の導入要求である。

 1947年、暫定措置令・第689号は、強制、代替、または任意の年金の名称で、物価調整手当の臨時手当の対価として、INPSから管理された社会連帯基金を創設する。

 1948年1月25〜29日、ローマで開催されたイタリア年金者組合連合(FIP)の第1回大会でフィレンツェ計画が正式に承認され、出席した代議員は、会長にデ・マルティーノを再確認し、こうして年金者組合が正式に誕生した。

 

分裂と平凡な組合主義の困難

1948年は、真の歴史的分岐点であった。政治選挙は、キリスト教民主党の圧倒的勝利と左派の重大な敗北に終わり、中道政治局面の第一期(1948〜1953)が開始された。

共和国大統領にエイナウディの選出、7月のトリアッティ共産党書記局長への攻撃、総同盟の分裂、NATOへのイタリア参加、南部の土地占拠がその後の2年間の主要な出来事であった。困難な経済再建と激しい社会的矛盾の背景での政治闘争が過激化していった。

9月には、カトリックの潮流は自由イタリア労働総同盟(LCGIL)を結成し、1949年6月には、社会民主主義者と共和党員の潮流がイタリア労働連合(UIL)を結成した。最終的には翌年の5月1日にはイタリア労働者組合同盟(CISL)と名称を変更し、現在の通称「三大労組」となっていく。(ファシスト的傾向が色濃いイタリア全国労働者組合[CISNAL]も同年創立)。組合内部での激しいイデオロギー的対立や分裂と強力な使用者のヘゲモニー的な吹き込みに直面して、結果としての労働界の弱体化によって特徴づけられた年月となる。

FIPも、また組合の分裂と結びついていた。1949年7月19日のローマの臨時大会中に、会長自らがカトリック的傾向の組合構造にすることの提案を表明したが、代議員の多数の断固たる拒否によって反対されてしまう。こうして年金者組合の中でも分裂が始まった。

FIPの第2回大会は、同年12月7〜9日、ローマで開催され、マーリオ・ベルリングェル(後年、息子はイタリア共産党書記局長となる)が会長、ウムベルト・フィオーレが書記局長に選出された。ディ・ヴィットーリオは、新しい組合構造のあいさつで、全年金者の統一の必要性と最終賃金(または少なくともその9/10)に相当するレベルに年金を適正化する要求を主張した。

1951年中は、デモが続いた。FIPは年金のクリスマス・ボーナス(13月分)の獲得、将来の引き上げのための内払いのような重要な勝利を獲得したが、また要求のその大半(社会保障の改善、スラーラ・モービレ、医薬扶助、年金引き上げ、全国年金機構[ONPI]の管理委員会への参加)は、なしのつぶてのままであった。

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